40歳になったNBAの元スーパースター、トレイシー・マグレディ。
殿堂入りも果たしているマグレディは、NBAのレジェンドと言える偉大な存在です。
史上屈指のスコアラーである”T-MAC”のキャリアを振り返ってみましょう。
控え選手だったラプターズ時代のトレイシー・マグレディ
1997年のNBAドラフトでラプターズに1順目9位指名されたマグレディは、当初目立つ存在ではありませんでした。
主にベンチプレイヤーとしての役割だった最初の2シーズンでは、それぞれ平均7.0得点・9.3得点というパッとしないもの。
当時のラプターズの主役は、マグレディの従兄弟でもあるヴィンス・カーターでしたね。
マグレディはラプターズ3年目に出場時間を伸ばし、15.4得点 6.3リバウンドのスタッツを記録。
全盛期のマグレディを知っている身からすればまだまだ物足りない数字ですが、当時のプレーからもポテンシャルの高さは伝わってきます。
203cmの長身ながら、凄まじい身体能力と高いスキルを持っているところがマグレディの魅力。
そしてラプターズからオーランド・マジックへの移籍を機に、マグレディのポテンシャルが爆発します。
マジック移籍で一気にスーパースターとなったトレイシー・マグレディ
2000-01シーズン、マジックに移籍したマグレディはチームのエースポジションに。
ここからマグレディは一気にリーグのスーパースターへと躍り出ます。
オールスターにも、この2001年から2007年まで7年連続で出場を果たしていますね。
そして、4年目にしてキャリア初の全試合スタメン出場となったマグレディの個人成績上昇具合は凄まじく。
ラプターズ最終年とマジック1年目でのスタッツを比較してみましょう。
1999-00シーズン(ラプターズ在籍) | 平均15.4得点 6.3 リバウンド 3.3アシスト 1.1スティール |
2000-01シーズン(マジック在籍) | 平均26.8得点 7.5リバウンド 4.6アシスト 1.5スティール |
平均得点を10点以上底上げして見せたマグレディは、この年のMIP賞に輝きました。
マジック3年目となる2002-03シーズンにはキャリアハイの平均32.1得点を記録し、初の得点王に。
マグレディはマジックに在籍した4シーズンで、
- MIP受賞
- 得点王2回
- オールNBA1stチーム2回選出
など、リーグトップクラスの選手としての地位を築きました。
マジック時代のトップハイライトプレーからは、「高いスキルを兼ね備えた身体能力オバケ」というような印象を受けます。
最近のNBAでも「一人アリウープダンク」を見ることが1シーズンに1回くらいありますが、僕にとってはマグレディの披露したものが、このトンデモ技の初体験でした。
伝説の『35秒13得点試合』を生んだロケッツ時代のトレイシー・マグレディ
マグレディが華々しい活躍を見せていたものの、03-04シーズンのマジックは21勝61敗という悲惨なチーム成績。
勝利を求め、マグレディは自らマジックにトレードを要求したとされています。
マグレディはロケッツに移籍決定。
結果的に、このロケッツがもっとも在籍期間の長いチームとなりました。
そしてこのロケッツ移籍1年目に、マグレディは伝説の『35秒13得点』を記録したのです。
今ではもう有名すぎる映像になりましたね。
バスケの枠を超えて、いかにスポーツ競技がドラマチックなものであるかを凝縮したハイライトになっている気がします。
ロケッツのホームで行われたこの試合、映像をよく見ると、荷物を手に持って帰る準備万端のファンや、出口へと向かっている人も発見できます。
そりゃあ、応援しているチームが残り40秒で8点ビハインドなら、もう諦めますよね。
どう考えても敗北濃厚なこの試合をひっくり返したマグレディの伝説的パフォーマンスは、未来永劫語り継がれるものだと思います。
怪我に苦しんだトレイシー・マグレディ
マグレディのキャリアを語る上で避けて通れないキーワードは、『怪我』ですね。
選手として最も輝ける期間だったはずのロケッツでの20代後半は、相次ぐ故障に苦しみ続けることになりました。
圧倒的な身体能力が武器の一つだっただけに、故障を抱えてのパフォーマンスはマグレディにとってキツすぎる。
故障欠場の繰り返しとともに個人成績も低下していき、ロケッツに在籍した最終シーズンのスタッツは15.6得点にまで落ち込みました。
中国リーグでプレーしたトレイシー・マグレディ
09-10シーズンにロケッツからニックスに移籍して以降もパフォーマンスの質は下がり続け、次第にロールプレイヤーとしての役割が主になりました。
ニックス→ピストンズ→ホークスとチームを渡り歩いた後には、ついにプレーするNBAチームが見つからなくなる事態に。
2012年、プレー先を求めたマグレディは拠点を中国へと移しました。
NBAでは通用しなくなったマグレディも、中国リーグでは圧倒的。
全盛期を過ぎたNBA選手がアジアでプレーするとどうなるかを示す、いい例ですね。
バスケマーケットのでかい中国では、キャリア末期の元NBA選手がやってくることが多いです。
1シーズンを中国でプレーしたマグレディは、平均25.0得点を記録しました。
その後はNBAプレーオフ前に、ロスターに空きの出たスパーズと契約を結んだマグレディ。
6試合に出場し、1得点もすることなくシーズンを終えました。
これが、マグレディにとって最後のNBAキャリアに。
当時34歳だったマグレディには、怪我さえなければもっとプレーできていたのに…と思わざるを得ないですね。
コービーを最も手こずらせた男・トレイシーマグレディ
相次ぐ故障により、選手としての輝かしい期間はやや短くなってしまったマグレディですが、全盛期の圧倒的な活躍は、誰もの記憶に残るものです。
あらゆる名選手と戦ってきたコービー・ブライアントは、「過去に対戦して最も手強かった相手」の名前にトレイシー・マグレディを挙げています。
2メートル超えの長身ながら、あらゆるスキルと高い運動能力を持っていたと。
二人が若い頃バチバチにやりあっていた映像は、もうたまらんですね。
2人とも、2000年代を象徴する最高のスコアラーでした。
後世に残るトレイシー・マグレディのプレー
マグレディはキャリアを通して優勝経験がなく、他の歴史に残るスーパースターに比べると、アクティブだった期間も短いかもしれません。
ただ、そんなマグレディが殿堂入りを果たしているという事実が、全盛期の彼がどれだけ規格外のプレイヤーであったかを物語っているはずです。
トレイシー・マグレディのプレーの数々は、NBAファンの記憶に残り続けます。